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入谷とあさがお

入谷の朝顔あさがおの絵

 朝顔は、奈良時代初に薬用として中国より導入されました。当初は青色のみであった花色も、赤・白などが出現し、文化・文政の頃より観賞用植物として盛んに栽培されるようになりました。「入谷の朝顔」「あさがおの入谷」と世に宣伝されるようになりましたのは、明治中期頃でございますが、入谷の名は、植木師成田屋留次郎の活躍により、顕われております。

 成田屋は、変化咲の名人であるばかりでなく、今で謂うルポライターで、「三都一朝」と著わし、江戸・京都・浪花から 84品種を選び、田崎草雲の画を以って図説を行い、更に「雨地秋」で、江戸・浪花の珍品を紹介し、「都鄭秋興」では野村文紹の画によって、各地124品種を紹介しております。また、「花合せ会」などを各地で開いたプロディーサーでもあり、入谷朝顔の始祖とも言えるでしょう。

 なぜ入谷で朝顔が盛んになったのかには幾つかの理由が考えられます。
第一に、江戸の郊外であるため、人々が早朝、朝顔を見に来やすかったこと。
第二に、上野の山のふもとで、雑木の落葉が水路などに堆積し、その土が、朝顔の栽培にとても適していたことです。


入谷朝顔の復活

 昭和20年8月15日、終戦、東京は無惨にも破壊し尽くされ、見渡す限りの荒涼たる焼野原となり、同時に江戸以来の情緒も、下町の人情も消えうせてしまいました。人々は、物資の困窮の中を、ただ夢中となって、食糧の確保と再建に、昼夜分かたずあせっている状態でした。入谷もその例にもれず伝統ある商店も、新参の方々も、こぞってかつての良き入谷の再現に懸命の努力を尽くしました。
  昭和 22年に入って商店街の再建と共に人心の荒廃を療すべく「入谷の朝顔」の再建に努め、「美しい自然を取り戻そう。花を愛してやさしい心を育てよう」と焼けた街路樹の跡や、空地に種を捲き、人々に配ったのです。こうして、「入谷の朝顔」が復活しました。

 昭和23年より朝顔を中心とした植木の市が7月6・7・8日に行われ、現在は朝顔のみを売る朝顔市になりました。開催は、牽牛星と織姫が1年に一度会う七夕にちなみ、7月6・7・8 日に決められました。(朝顔の種子を牽牛子ともいう)

  しかし、一般に朝顔の咲く時期ではないため、当初は大変苦労をしました。現在では、ビニールハウスの利用や栽培技術の発展により、毎年立派な朝顔を咲かせることができました。


朝顔と入谷鬼子母神

 朝顔と鬼子母神の関係はかなり古いようです。鬼子母神は、あらゆる魔障調伏、特に安産や子育ての神として、多くの人々に厚く信心されて現在に至ったわけですが、明暦の大火の後の元治二年に仏立山真源寺が、ここに開基され、更に参詣人が増えお詣りの帰りに朝顔を見物し、朝顔を見てはお詣りするという具合で、参詣人目当ての朝顔せんべいなどが売られそうめん、きそばなどと共に名物となっている事を浮世絵などに描かれています。

 鬼子母神は、ご存知の様に、人の児を奪い取っては食べてしまう悪神でが、お釈迦様の教化によって善人になり、かえって小児を守る神となったので、虫封じや御弟子入りを祈願する人々が毎日の様に来られました。入谷の神は「恐れ入谷の鬼子母神」と洒落言葉にある様に庶民の親しみを受け、「鬼」から、「ノ(つの)」を取った様に、生物の無常の中に風流風雅の美意識を育て、一方で農耕民族特有の包み込むような母性を持った日本人の性質をよく示していると思われるのが、朝顔の風情とよく合致しています。入谷の朝顔市が切っても切れない関係で発展して来たのもこうした因縁が感じられます。


当組合のあさがおについて

 当組合のあさがおには全て右図の札が添えられております。
右図の札の添えられた商品が、下谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会により公認されたオフィシャルなあさがおとなります。
粗悪な類似品にご注意下さい。

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