
明暦三年の大火のために、徳川の江戸経営の方針によって中央からお寺や武家屋敷が移されて来ました。明治五年、西郷隆盛の代理内閣の頃より坂本村字入谷と呼ばれましたが、まだまだ明けては杉林に囲まれ太郎稲荷の幟が青空にはためくのが見え、暮れては吉原の灯がチラチラと遊治郎の気を惹き、美しい蓮の花や、白鷺の遊ぶ水田が残されていたのです。有名な能舞の「鷺」も喜多翁が入谷田圃でヒントを得たといわれております。明治十年以降は、だいぶ家屋が建てられ、朝顔園の失くなる大正二年頃には、千葉・埼玉・茨城の近県を初め、地方からの流入が激しかったようです。大正五年には、道路整備の一つとして現在の「言問通り」が作られました。翌年に、この通りに面した両側の人たちが、土地の発展のために協力しようと会を作りました。これが現在の「入谷中央商店街振興組合」の前身「入谷商工会」です。 その後、関東大震災など厳しい時代を経て、来年には八十五周年を迎えます。また、戦後、皆様方と復活させてきた朝顔市も54回を数え、今では「入谷といえば、朝顔。朝顔といえば、入谷。」などと皆様に愛されるようになり、組合員一同、心より感謝いたしております。「協力一致・お客様本位」を合言葉に、これからも皆様のためになる商店街、愛される商店街として懸命なる努力を致す所存でございます。 これからも入谷及び、入谷中央商店街を心よりお願い申し上げ、ご挨拶に代えさせていただきます。 入谷中央商店街振興組合・組合員一同 |